23年前のチェルノブイリ医療支援報告 

この記事は14分で読めます

ほうきネット代表の中村隆市が、チェルノブイリ原発事故から6年後の1992年に医療支援のために、ベラルーシを訪問したレポートが「草の根通信(作家の松下竜一さん(故人)が発行人)」に掲載されていましたので、抜粋して転載します。

 

草の根通信 第243号 199325

サナトリウム・キュウシュウ”を訪ねて

中村隆市(福岡県)

なんとなく

 昨年の126日から14日まで、チェルノブイリ支援運動・九州の第二次調査団として、ベラルーシ共和国に行って来た。その報告と、あなたがベラルーシに行くようになった経過を書いてほしいと松下センセからの電話を受け、自分で「なぜ行くようになったのかな」と思い返してみた。

「なんとなくそうなってしまった」というのが正直なところだが、しいて理由をあげるとすれば、私が自営業としてやっている「有機農産物産直センター」の「主力商品」である産直コーヒーと関係している。産直コーヒーというのは、無農薬栽培のコーヒーを顔の見える生産者から輸入し、自家焙煎して消費者に直送するのだが、2年前から「チェルノブイリ原発事故被害者支援コーヒー」を扱い始めたところ、予想以上に売り上げが多くなり、このコーヒーを飲んでいる人たちや、コーヒーの販売に協力してくださる方々から、チェルノブイリの被害や支援についての問い合わせを受けることも多くなった。

 そんなわけで、ただカンパのお金を支援運動の事務局に送るだけで「詳しいことは、よく知りません」ということではすまされなくなったということもあり、去年9月にベラルーシから来日したチェルノブイリ同盟代表団の講演会や交流会に参加したり、10月のチェルノブイリ支援運動・九州の総会にも参加した。

 その総会では、支援運動・九州の支援でミンスクに設立されるサナトリウムのことが話し合われた。放射能汚染地に住む子どもたちが一定期間だけでも汚染されていない土地で汚染されていない食物を食べ、検診やリハビリができるようにする保養施設なのだが、その維持、運営のための資金5万ドルと超音波診察装置(エコーカメラ・価格360万円)を現地に送らねばならない。しかし、今のロシア事情では銀行経由でも5万ドルが確実に届くという保証はないらしく、誰かが持参しなくてはならないということが、このときの一つの議題なのだった。

 そして、総会参加者の中で、私以外に「行ける人」がいなかったため、私が行くハメになってしまったというのが真相である。

 あとになってよくよく考えてみると、私の仕事は12月が一年で一番忙しい月で、私も本当は「行ける人」ではなかったのだが、そのことに気づいた時はすでに会議は終ってしまっていた。

 その結果、うちのカミさんの私に対する長年の評価「ムセキニン、イイカゲン、ワガママ」はいっそうゆるぎないものとなった。

カタログハウス

 「九州」の総会の翌週に東京で開催された「第2回チェルノブイリ救援グループ全国会議」に、支援運動・九州事務局長の深江守さんと一緒に参加した。5万ドルとエコーを届けに行くことについては、宅急便の配達人くらいの感覚で受けとめていたのだが、せっかくベラルーシまで行くんだから、少しは勉強しといた方がいいだろうということでの参加だった。

 この会議を主催しているカタログハウスという会社にも興味はあった。この会社は「暮らしの道具」を通信販売している会社で「通販生活」というカタログ誌に「チェルノブイリ事故で苦しんでいる子どもたち」のことを掲載し、読者(会員)から一口2000円の「チェルノブイリの母子支援募金」を募っている。1990年11月からスタートした募金は、年間4000万円から5000万円が集まっており、そのお金で医療機器やビタミン剤、医薬品、放射能測定器などを購入し、ベラルーシやウクライナのいくつもの病院に届けている。

 また、カタログハウスは全国にあるチェルノブイリ支援(救援)グループの活動がスムーズにいくように、モスクワに「チェルノブイリ救援連絡事務所」をつくっていて、ゴーリキー通りの日ソ合弁会社の一室を借り、8人乗りのワゴン車を二台とファクシミリ等を設置し、日本語もできる事務局員をおいている。

 今回の私たちの訪問でも、ホテルや通訳の手配、モスクワからミンスクまでの支援物資と人間の輸送及びベラルーシ国内の移動のほとんどを、この連絡事務所のお世話になった。もちろん通訳料は私たちが支払ったが、それ以外はガソリン代だけで運転手付きの8人乗りワゴンを一週間貸切りで利用させてもらえて大助かりだった。

 こんな「いい仕事」をしている会社の社長って。どんな人かなと思い、会議に参加された斉藤社長(たぶん50代半ば)に声をかけてみたら、初対面の私のようなワカゾーにも、ていねいに応対して下さった。この会社には、オドロイタことに、チェルノブイリ担当の社員までいるのだ。神尾さんというその若い女性は、市民グループの世話をしたり、一見優しそうな感じの人なのだが、カタログ誌上の報告では、次のようなキビシイ文を書いている。チェルノブイリ現地の医療器具の圧倒的不足について「人工衛星を一基とばす予算で、最新の医療器具がどっさり備えられたのに、ソ連の権力者たちは一体、市民の生命をなんだと思っているのだろう……」

 さて、この全国会議には次のような市民グループが参加していた。エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金、チェルノブイリ子ども基金、チェルノブイリ救援・中部、日本キリスト教協議会、日本チェルノブイリ連帯基金、「チェルノブイリ被害調査・救援」女性ネットワーク、チェルノブイリに放射能測定器をおくる会。そして、わたしたちのチェルノブイリ支援運動・九州の計九団体。それに、広島大や信州大の先生をはじめとする医療専門家や検査技師が集まって、各々の活動や調査、研究の報告を行い、情報交換しながら、今後のより有効な支援(救援)活動の方向を話し合った。

サナトリウムの意義

 会議には出席していなかったが、広島の「ジュノーの会」という市民グループの報告資料が目を引いた。「ジュノーの会」の名の由来は、終戦当時、広島の被爆者に15トンの医薬品を贈り、数万人の命を救ったといわれるスイスのマルセル・ジュノー博士からきている。

 その「ジュノーの会」の報告資料の中に、ウクライナ共和国の学校現場での共通の問題があげられている。体育の授業が成り立たない。計算力や記憶力の低下によって従来の授業が成り立たない。せめて子どもたちには非汚染食糧を食べさせたいが困難。せめて子どもたちだけでも非汚染地域に行かせたいが困難。

 キエフのイサエバ医師(免疫学)は学校と協力してプリピャチ(汚染地)出身の子どもたち300人を継続して診てきたが、「今年はもうプリピャチ出身の子どもたちよりもキエフ生まれの子どもたちの方が健康状態が悪くなった。転地療養や検診などの優遇措置が与えられてきたプリピャチ出身の子どもたちに対して、キエフの子どもたちは特に何らの措置も講じられなかったために生じた逆転現象であろう」という。

 昨年までは、年に1、2度の転地保養も保障されていた地域の子どもたちも、今年(1992年)からはインフレの進行とともに保養のための移動が不可能になった模様。ジュノーの会が訪問した5つの学校の教師たちは口を揃えたように「いままで子どもたちの健康を少しでも回復させてくれていたのは転地保養のみ」といい、イサエバ医師も転地療養のみが効果的だったと述べているので、インフレの急激な進行とともに子どもたちに対する唯一の対応策も消えてしまったというのが教育現場の現在の実感のようです。(中略)子どもたちの転地療養を可能にするための資金援助が大切な課題になる。わずかの期間でもいい。汚染の少ない地域へ、汚染の少ない食料を―という報告である。

 私たちチェルノブイリ支援運動・九州は、ウクライナ共和国ではないがベラルーシ共和国に市民グループ「チェルノブイリ同盟ベラルーシ」と協力して、「サナトリウム・キュウシュウ」という名の転地保養所をオープンさせたが、無知な私はジュノーの会や他のグループの話を聞くことで、ようやくサナトリウムの意義を実感しつつあった。

 これだけでも会議に参加した価値は充分にあったのだが、最大の収穫は日本チェルノブイリ連帯基金の大友さんとの出会いである。後に大友さんとは一緒にベラルーシまで行くことになるのだが、大友さんは「九州」のサナトリウム支援活動を高く評価し、また、12月のベラルーシ行で非汚染食品の生産について、現地の人と話し合うことに関心があり、私たちのベラルーシ行に同行することになった。

四人で出発

11月に入ってベラルーシ行のメンバーが確定し、「第二次調査団打合せ会」が小倉で開かれた。打合せ会に来ていた新聞記者から「今回の調査団のダンチョーさんは誰ですか?」と聞かれた深江さんは、すまし顔して「中村さんです」といった。ダチョーではないダンチョーである。「そんなこと聞いてないゾ!」と私は思ったが、口には出さなかった。

こうして私は、アレレと思っているうちに第2次調査団団長にさせられてしまった。

12月6日、九州の3人は夜明け前の福岡空港に集合し、羽田へ。リムジンバスで成田に着いたら大友さんの笑顔が待っていた。

早速、チェックインカウンターで重量の検査(機内持込用バッグを除いた各自の荷物と支援物資)。心配はしていたが170キロもオーバーしていた。大友さんが係員と必死に交渉し、あと50キロ分だけ運賃を支払えばOKというところまでこぎつけたが、その分が27万円もかかるという。困った。

大友さんと私は、仕方ない、絵本の一部は東京に残していこうと思った。ところがどっこい、女性2人は男2人よりはるかにシブトイ。「九州各地の会員から預かった、心のこもった物をそう簡単に諦めるわけにはいかない」と村上さんが土産物用の紙袋を買いに走った。そして渡辺さんは機内持込用バッグの中からジャンパー類を取り出して、そこに絵本や人形を入れ始めた。結局、女性2人の活躍でほとんどの絵本類が手荷物となって飛行機に乗ることができたのでした。

ここで、まず女性2人に敬服しながら、四人でビールでカンパイ!

サナトリウムの第一夜を眠れず

 モスクワ・シェレメチィボ空港には、現地時間の6時40分に到着。 カタログハウスのモスクワ連絡事務所スタッフ3人と通訳のイリーナさんが出迎えてくれた。 この日の宿は赤の広場近くのインツーリストホテル(2人部屋で155ドル)でぐっすり眠った。

 12月7日。8時から朝食、バイキングで1人300ルーブル(約90円)。9時半、ミンスクに向けて、支援物資と6人を詰め込んだワゴン車が出発。運転手のゲーナさんは時速百キロくらいのスピードで突走る。

 午後2時頃、ロシアとベラルーシの国境近くの大きなログハウス的レストランで昼食、6人で食べて800ルーブル(約250円)、一人約40円。そして午後時半(ミンスク時間4時半)、ベラルーシ共和国の首都ミンスクにあるチェルノブイリ同盟オフィスに到着。満面笑みのヤコベンコさん(同盟議長)と3ヵ月ぶりに再会。握手と抱擁。

そこから車で30分ほど走ると、ついにあの憧れの「サナトリウム・キュウシュウ」に到着。

 感激に浸る間もなく、サナトリウムと別棟の宿舎に入り、明日からのスケジュールについてヤコベンコさんと打合せ、予想していたとおりのハードな内容。時間的に無理だろうと考えていたゴメリ行も決行することになった。この日の夜は、なにやらよくわからない興奮と翌日の準備で余り眠れず。相部屋の大友さんはぐっすり眠っている様子。

ドングリを

 12月8日午前中、小児科血液病センターを訪れ、アレイニコヴァ女医と会談。忙しいなか、病院内を一通り案内して下さった。

 日本の市民グループからの援助物資がいろいろと入っていたが、印象に残ったのは、ドイツの市民グループが材料を持ち込んで作ったというキッチンで、子どもたちの付き添いをしているお母さんたちがわが子のために料理を作っていたことだ。「お母さんの手料理を病院で食べられるということは、とても大事なことだ」とアレイニコヴァさんはいう。今後のサナトリウムの参考になるかもしれない。

 午後からはチェルノブイリ同盟の幹部会議に参加した。議題は新しいサナトリウムプランのことやオルターナティブエネルギー国際会議のことであったが、白熱した議論が戦わされていた。

 夕方からはいよいよサナトリウム・キュウシュウのオープニングセレモニーがテレビ局や新聞社が取材する中、開始された。壇上に上がった私たち四人が各々にスピーチをしたが、私はスピーチの終りに、子どもたちにあるお願いをした。それは大友さんの提案で、私たちが持参したドングリ(私の場合は小学生の息子が拾ってくれた)をサナトリウムの子どもたちに植えてもらうことだった。私たちはこれをトトロ計画と名付けた。

 オープニングセレモニーが終わると、子どもたちとはもう友達になっていた。大人たち(医師や教師や同盟のメンバー)とは夜の歓迎パーティでイッキに仲間になった。歌と踊りが夜遅くまで続いた。

◆7割は汚染農産物

 12月9日午前中は、サナトリウムに食料を供給しているコルホーズを訪問。村上さんは体調が悪く、サナトリウムに残った。

 さいわい、このコルホーズは放射能で汚染されていない。しかし農薬と化学肥料は、日本ほどではないが使われている。

 話が遠まわりになるが、8月にブラジルに出かけて有機無農薬栽培コーヒーの生産者を探して回ったとき、生産者の紹介と通訳をしてくれた日系人の続木さん(ブラジル有機農業協会の発起人で、現在、協会の農業技術者や農民に有機農業の技術を指導している人)に、チェルノブイリ支援運動のことや汚染されていない食物の増産の必要性を話したところ、支援運動にカンパを下さっただけでなく、「私にできることがあれば協力しますよ」という嬉しい申し出を受けた。

 続木さんはブラジルで有機農業の普及に取り組む中で、生産物の質と同時に量の増産にも大きな実績をあげている。その技術が、気候風土の違うベラルーシでどれだけ生かせるかはわからないが、続木さんに依頼された調査項目をコルホーズの人たちから私は聞き取り調査をした。あまりに多くの質問を次から次に投げつけるため、「あなたはKGBか」という声が出て一同で大笑いという一幕もあった。

 同行した同盟の副議長や科学者、コルホーズの議長に「もし放射能に汚染されていない農地だけで生産した場合、ベラルーシに必要な食糧の何割が生産できるか」との質問に対しての答は、「3割」ということで、つまり7割は汚染された農作物を食べていることになる。

 汚染されていない地域での生産性を上げることの他に重要な課題として、生産した農産物をうまく保存する設備や加工技術を向上させることがある。ジャガイモやリンゴなどは、たくさん収穫しても腐らせてしまうことが多いという。放射能に汚染されていない貴重な食料が食べられないまま腐っていってしまうのはもったいない。

サナトリウムを切望

 問題をかかえたまま、私たちはコルホーズを後にして、チェルノブイリ原発から100キロ圏内のモズィリにむかった。到着したところは、ヤコベンコさんのお姉さんの家だった。ここで私たちは2人の素敵な女性と出会った。ここから先は渡辺さんのレポートを引用させてもらう。

<今回の旅で出会った人々の中に、エレーナさんというユダヤ人の女医さんがいた(中略)

 このエレーナさんがモズィリ市内の病院の小児科で扱う様々な症状の子どもたちについてだが…モズィリ市そのものは低汚染地なのだが、周辺に多くの汚染地を抱えていて、そこからやってくる放射能障害の子どもたちが確実に増加傾向にあること。しかし、医療設備の不備、基礎的な薬剤の不足、病棟の手狭さなどなどの問題があるとのこと。

 彼女とモズィリ市に同盟支部を発足させて、その支部長となったリージャさんも三人の子どもを持つ母親だ。母親として「いてもたってもいられない気持ちから」、エレーナさんとリージャさんは支部の活動を開始したそうだ。彼女たちのひたむきで真摯なまなざしが、印象深く心に残っている。>

 この日はモズィリのホテルに泊まったが、このホテルは本当に寒かった。暖房のきいてない部屋のベッドにはシーツと薄い毛布一枚しかなく、私は服を着たまま毛布とシーツまでかけて寝たが、それでも寒かった。「ああ、村上さんを連れてこないでよかった」と思ったが、その村上さんは居残ったサナトリウムで四十度の高熱を出して苦しんでいた。9月に九州に来た女医で英語のできるエレナ・リスツォーバさんが薬やごはんまで持参してかけつけて下さり、大事に至らずに済んだのはさいわいだった。

 しかし、村上さんのスゴイというかコワイところは、一人でベラルーシのテレビ局からの取材に対応し、また、サナトリウムの子どもたちや教師や医師の取材をしていることだ。以下は村上さんのレポートから―。

<ミンスクから20キロ郊外のスタイキーの町にサナトリウムはたたずんでいる。そこは、スヴィスロッチ河畔の針葉樹の木立に囲まれた旧ソ連のオリンピック選手強化村で、あらゆる施設が整っていた。「サナトリウム九州」の活動は、その一画の3棟を賃借して、1992年12月から始まった。記念すべき第1期生として、カリンカビッチ市近郊から120人の子どもたちと10人の教師が24日間の滞在で保養に来ていた。

 チェルノブイリ原発から50キロしか離れていない汚染地区に住むカリンカビッチの人々は、他の汚染地駆動用、被ばくの後遺症に関する情報が乏しく、心に不安を持ちながら生活している。今回初めて「同盟」の働きかけで診療の機会を得たのである。(中略)

 しかし、24日間の保養では、疲れやすく病気がちな子供たちにとっては十分な保養とはいえず、再び汚染地区に戻り、汚染された食物にさらされる現状を思うと心が痛む。

 それでも彼らにとっては、専門家による医療検査を受けられるという期待から、親たちはこぞって子供たちをこのサナトリウムに送ることを切望しているとのことである。>(つづく)

草の根通信 第244号 199335

サナトリウム・キュウシュウ”を訪ねて

中村 隆市(福岡県)

市長さんだった

12月10日

 寒さであまり熟睡できないまま朝をむかえた。前日までは暖冬のせいか、さほど寒さは感じなかったが、昨夜からベラルーシは普通の寒さに戻ったようだ。気温はマイナス10度か、20度か、やはり九州の人間にはこたえる。

 ホテルから再びヤコベンコさんのお姉さん宅に戻り、朝食をいただいた。エレナ医師とリージャ支部長も一緒だ。ヤコベンコさんが新聞を渡してくれたので見てみると、そこにはサナトリウムのオープンセレモニーのことが写真入りで大きく取り上げられていた。昨夜のテレビニュースでも大きく扱われていたし、やはり「サナトリウム九州」のオープンは、ベラルーシ共和国にとって大きな一歩だったのかもしれない。

サナトリウム九州 開所式(1)

 同盟のモズィリ支部長であるリージャさんの言葉が印象的であった。「サナトリウムは、一般的な保養のためのものであったが、放射能被害の子どもたちのためのサナトリウムは、これまでベラルーシにはなかった。この六年間必要だったものが、ようやくできた。モズィリの子どもたちは1月11日から、150人くらいサナトリウムに行く予定になっている。子どもたちをサナトリウムに行かせたいと思っている親はたくさんいるが、入れる人数限られている。ミンスクだけでなく、モズィリにもサナトリウムを作りたいが……。私の夢はベラルーシのたくさんのところにサナトリウムができること。そうなったら本当にうれしい」

 朝食をすませると、私達はモズィリ市役所を訪れた。市長への表敬訪問のためだ。ところが市長室には、昨夜ヤコベンコさんのお姉さん宅で、私達を迎えてくれて夕食を共にした陽気なサフチェクさんがいた。なんと、サフチェクさんはモズィリの市長だったのだ。

 私のメモをめくってみると、次のように書いていた。

 <サフチェクさんは以前、モズィリ地区のコルホーズで議長をしていた。有機農業にも関心があって、自分でも農薬と化学肥料を使わずに栽培してみたことがあるが、そのときはウサギが食べに来た。ロジナコルホーズは2200ヘクタール、年間、牛乳を3200トン、バレイショ3500トン、キャベツ1000トン、小麦、大麦、ライ麦を合わせて3000トン、リンゴを70ヘクタール……等々作っているが、食品加工できる設備がない>などとは書いているが、市長とは書いていない。

通訳のイリーナ

 ベラルーシに来て、この日までに沢山の人と会い、話をしたが、通訳のイリーナさんは次から次と通訳をしていくので、大事なことを聞き逃すことも多い。それにしても、通訳というのは本当に大変な仕事だ。特に私のような礼儀知らずは、通訳の人に食事をする時間さえ与えずに話を続けるので、イリーナさんはまともに食事をすることもできない。

 たまに私たち日本人とイリーナさんだけになって、やっと休憩できるとホッとしているときにも、イリーナさん本人に対してインタビューしてしまうという念の入りようなのだ。もう二度と私達のようなものの通訳はしたくないだろうなと聞いてみると、「また、こちらに来ることがあったら是非、呼んで下さい」という。

 ボゴモーロワ・イリーナ  1952年ウラジオストックに生まれ、極東国立大で日本語を学んだという。結婚してモスクワに移住、日本語版ソビエトグラフの編集者をしている。これまでチェルノブイリ関係の通訳は6回経験しており、チェルノブイリ原発のすぐそばにも行ったことがある。通訳をすればするほど、事故の影響、被害の大きさを知ることになった。そんな経験をして今一番訴えたいことは、「汚染されたゾーンに住んでいる人を助けてほしい」ということだ。

 サフチェク市長に記念品をもらって、いよいよ、その汚染地で有名なホイニキに向かった。ワゴン車の運転手ゲーナさんは、相変わらず猛スピードで突走る。地面が凍結していても、気にする風でもない。不思議とあまりスリップもしない。

ビタミンが必要

ちょうど12時頃にホイニキ市役所に到着。12時といっても、こちらでは昼食時ではないようだ(私達はいつも14時頃に昼食をとった)。市長室に入ると、医学博士のノビツキ教授、地区立病院責任者のコーブーリコさん、ベラルーシ国家委員会チェルノブイリ、ホイニキ担当のコブロイさん、そしてホイニキ市長のオーリャクさんが私たちを待っていてくれた。

 市長は40才前後に見える若々しい人で、優しい顔をしていたが、放射能汚染地図などを使って懸命に私たちに汚染状況を説明しながら、「ここから避難することができないので、皆さんの力がほしい」と訴えられた。他の人たちからは、「チェルノブイリ原発事故後6年間、医者として働いている。事故の後すぐ、情報が少なかった。4月28日からヨード治療をスタートしたが遅かった。その結果、被害が大きくなった。事故前10年間、ホイニキには甲状腺ガンはゼロだったのが、89年から91年の間に10人、そのうち子どもが3人だった。ホイニキの人口の10%は甲状腺異常、肥大がある。子どもの中には肥大が40%ある。これが最大の問題である。全体のガンも増えている。事故前5年間は10万人当りガンが200人だったのが、去年は382人になっているし、他の病気の数も増えている」と訴えられた。病気の原因には食品の質と量の低下も影響しているとのことである。

 ノビツキ教授によれば、事故後6年間にいろんな調査、研究は行われたが、専門家の数が少なかったため、検査された人は少なかったという。去年(91年)、ベラルーシ国立チェルノブイリ委員会に招待されたときに、初めて、人口2万人の地区をサンプルにとって、1年間に1万6000人の大規模な検診が行われた。しかも10人の医師が内科、外科、眼科、産婦人科、小児科、内分泌科、血液検査、内臓エコー等々の詳しい検査を行ったそうで、来年そのデータを基にして『科学的な生活計画』という理論を作り上げる予定だという。

 ノビツキ教授の話で印象に残っているのは、普通、人間の身体にはエネルギーがあるが、放射線から身体を守るために体内のエネルギーが消耗され、「酸化」が進むことになり、「酸化」は免疫低下を招き、ガンや病気にかかりやすくなる。また、体内にビタミンが少ないと「酸化」しやすくなるという。

 だとすれば、汚染地の人達には、よりビタミンの豊富な食物が必要となってくる。「サナトリウム九州」に食料を供給しているコルホーズの人達が望んでいた「サナトリウムの子どもたちのために果物と野菜ジュースにハチミツを混ぜたものを作れる設備がほしい」という願いの意味がよく解った。

汚染イノシシ

 昼食後、私たちはコブロイさんと共に、チェルノブイリ原発から約30キロのところにあるバプチン村に向かった。時速百キロで突走るワゴン車の中でコブロイさんが説明してくれた。「汚染がひどくて今はもう誰も住んでいないバプチン村には、実験センターがあり、土壌、植物、動物の放射能エコロジーモニタリングをしている。このバプチン実験センターは、汚染された畑と動物を保有しているという意味で、『保育園』と呼ばれている。」

 車窓を流れる風景は、放射能を見ることができない私たちの目から見れば、人かげの少ない、のどかな農村風景にも見える。「のどかな農村の保育園」に着くと、副所長で「科学的問題の所長」でもあるフィヨドロフさんが、忙しい時間を割いて私達に対応して下さった。

 印象に残っている話は、「原発事故直後と今を比較すると、保護区域の野生動物の数はイノシシが1000頭から4000頭に増え、ヒツジが3倍、大シカが2倍、オオカミは5倍、そして、ビーバーは10倍に増えている。キツネは変わっていないが、ウサギは逆に少し減っている……3カ月に1回、いろんな汚染水準の地域から動物を捕らえてきて、セシウムとストロンチウムの調査をしているが、イノシシの肉はとても汚染されており、45キュリー以上の汚染ゾーンのイノシシは数十マイクロキュリーあるが、ときどき120から150キュリーのものもある(人間の身体に0.5マイクロキュリーあったら即入院だという)

長かった一日

 この日の夜は、モズィリ次長主催のお別れ夕食会が開かれた。サフチェク市長をはじめとする前日のメンバーに加え、地元コルホーズのメンバーや美術館の館長、市役所関係者などが加わり大宴会となった。誰もが私達に感謝の気持ちを表してくれた。

 モズィリからサナトリウムまで帰るのに、ゲーナさんの車でも3時間はかかるので、ヤコベンコさんは、なるべく早く切り上げようとするが、上機嫌なサフチェクさんは、なかなか帰してくれない。「今日はもう、ここに泊まっていきなヨ」といったムードである。ベラルーシと日本とで歌合戦をし、ウォッカやワインで何度も乾盃をした。

 サナトリウムに帰り着いたときは、日付が変わっていた。皆が心配していた村上さんが、なんとか元気になっていたので、一同ひと安心。互いの報告や翌日の打合せを終えて床についたのは午前3時頃だった。こうして12月10日という長い長い一日が終った。

さまざまなメッセージ

12月11日

 目を覚まして窓の外を見ると、そこは見とれる程の美しい雪景色に変わっていた。

 この日は夕方まで、サナトリウムの取材にあてた。子どもたちと先生の写真撮影やインタビューのために、イリーナさんと別にロシア語を英語に通訳できるタマーラさんも手伝ってくれた。また、大友さんの友人セルゲイさんも、バスでかけつけてくれた。この集まったメンバーを2つの取材班に分けることで、ようやく125人の子どもたちと10人の先生たちの取材を無事終えることができたのだった。

 33才の女性の先生は次のようなメッセージを下さった。

「検査と治療のため、わが子と他の学校から数人の子どもたちを連れて来ました。治療が必要な病気で弱っている多くの子どもたちの教育者としてサナトリウムにやって来ました。そして、私はすべての子どもたちのため心を痛めている母親としても、困難なとき、私たちのために注意を払ってくれ、できる限りの援助をして下さったあなた方、親切な日本の友達に感謝します。

 あなた方は、私たちに生きながらえ立上るチャンスを与えてくれました。いかなる所においても、原子力発電所の事故など滅相もない。私達は子どもたちが仲良く平和に暮らせるよう、全世界の平和と友好を祈っております。あなた方の親切に感謝します。

 種は日本の、そして、日本の親切で同情心の深い人々の思い出として蒔きましょう。援助ではなく、ただ平和友好のために私たちの所においで下さい」

 11才のリョーナちゃんは「サナトリウムには検査と治療のために来ました。日本の友人たちに会いました。彼らは私たちにたくさんのお金と医療機器、贈物、そして暖かい言葉をもって来てくれました。私は犬のおもちゃが当たりました。とても気にいっています。もしできれば、あなた方の子どもたちと親しくなり、文通したいと思います。」

 通訳のタマーラさんから次のようなコメントをいただいた。

「私はチェルノブイリ関係でこれまで、アメリカ、イギリス、スイス、オランダ、その他多くの通訳をやってきたが、援助は国によっていろいろ違いがある。薬、衣類、食品、医療機器……しかし、あなた方のように、こんなに子どもたちと接して、溶け込んでいった人たちは初めてでした」

ベラルーシ訪問・サナトリウム九州開所式など

必ず又来てと……

12月12日

 この日は、長い歴史をもつ平和基金の事務所を訪れ、ベラルーシ大学放射線化学研究科教授で、死者の肺の中から放射能を帯びた微粒子を検出したことで有名なペトチャエフさんに会うことができた。教授は、「サナトリウム九州に賛成だ。私達もいま、ミンスクから70キロ離れた所に300人規模のサナトリウムを準備中で、来年夏から入所できる予定だ」という。ドイツから75000ドルの資金援助を受け、建設は既にできているとのこと。このサナトリウムでは、エコロジー教育も行われるそうだ。「海外への派遣に使われるお金をサナトリウムに使えば、もっと効果的な援助になる」と力説された。

 この日はとうとうベラルーシ最後の夜となった。当然のように、お別れ夕食会がミンスクのレストランで開かれた。

 この夕食会お主催したのは、同盟の活動を支援している実業会社で、社長以下社員が総出で別れを惜しんでくれた。一見するとアメリカの先住民系の顔をした社長は、幼くして父親を亡くし、少年期に母親まで亡くして、その父親はなんと日本人だという。そのことを彼は、別れ際にさりげなく私たちに教えてくれた。そして、「今度は是非、暖い季節に来てください。ベラルーシの美しい自然を私が案内しますから、必ず来てヨ、必ずだヨ」と握手をしながら、何度も「必ず」をくり返した。

 ・

お別れコンサート

12月13日

 朝、日本に帰る支度をしている所に、子どもたちと先生がやって来て、ついて来い、というジェスチャーをする。いわれるままについて行くと、オープンセレモニーが行われたホールに子どもたちと先生が全員集まって、「お別れコンサート」を開いてくれるというのだ。よく見ると、一番後ろの席には食堂のおばさんたちも来てくれている。

 ベラルーシの子どもたちは、幼ない頃から コーラスや楽器や踊りを習っている子が多く、サナトリウムの子どもたちも即興で芸を披露できるのだ。親子で歌ってくれる人もいた。先生のアコーディオンに合わせて、かわいく踊ってくれる女の子たち。幼ないのに、笑顔で見事に踊ってくれた男の子。高らかにオペラ調で歌い上げた先生方。

 そして最後は全員で合唱してくれた。私達4人も、お返しに合唱したが、曲がなぜか「故郷」だった。あまり上手ではない。しかし、人の誰もが歌いながら感動していた。

 こうして,私たち一行はサナトリウム九州をあとにした。

方向転換しかない

 旅の途中、渡辺さんと大友さんが、ミヒャエル・エンデの話をしていた。確かエンデは、「第三次世界大戦は、とっくに始まっている。それは今までのような同じ時代に生きる者同士の戦争ではなく、今生きている人間達が、これから生まれてくる世代の環境を破壊汚染)していくような戦争である」と、そんな内容のことを言っているが、チェルノブイリの子どもたちを見ていると、そのことがよくわかる。

 今の人間は、遠い未来にまで影響を及ぼすことをいろいろとやっている。原発などは、たとえ事故を起こさなくても、遠い未来の人々にまで負担をかける「放射性廃棄物」を日々、生み出し続けている。特に日本のような、今生きている人間達だけが「快適に生きる」ために、後世代の環境をボロボロにしていくようなやり方から、もうそろそろ、後から生まれてくる人たちの立場に立ったやり方に方向転換しなければならない。そんなことを考えさせられた日間の旅であった。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. セヴァン515講演会 トークセッションで話す原田昌樹さん
  2. 福島県の死因別・死亡率と全国平均の比較
  3. 2015.5.9 飯塚講演会「スロービジネスと脱げんぱつ」.(縦長)
  4. 津田敏秀教授「スクリーニング効果で説明できるのは10万人に1人か2人」
  5. 日本の原爆被爆生存者と一般住民の罹病率と比較(%)
  6. NHK:原発事故作業員 白血病の労災認定
  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。

Twitter

Facebookページ