311子ども甲状腺がん裁判 意見陳述要旨(原告4)

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令和4年(ワ)第22539号

311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事件)

原告 1ほか

被告 東京電力ホールディングス株式会社

意見陳述要旨 2023年1月25日 原告4

1、現在の生活

朝起きると必ず歯磨きをして水を飲む。150mg のチラージンと一緒に。 スピード感ある今の職場に転職して半年。仕事は忙しいが、日々、充実感が ある。 今日も遅くまで仕事をしすぎた。疲れたので、夜ご飯は、最寄駅のマックで いいかと思うが、最近、野菜をあまり食べていない。働きすぎで、気持ち喉に 腫れを感じる。マックはやめておこう。 手術痕のあるところ触ることが癖になった。腫れを感じる時は、手を当てる と少し違和感が和らぐ。 がんと共に生きる生活は7年になる。

旅行の準備も、着替えや化粧水などと 一緒に、最後に必ず、薬を持ったか、確認することが当たり前になった。 普段、意識はしない。がんは、ただ常に側にある。

2、検査

その全ての始まりは、大学 2 年生の時の北海道旅行だった。 地元・福島を出て東京で一人暮らしをはじめて2年が経ち、東京の生活に少 しずつ慣れ始めていた夏休み直前、父から「札幌に旅行するから一緒に来ない か」と誘われた。初めての北海道。二つ返事で着いていくことにした。 夏休みは地元の友人と会う目的もあり、毎年、必ず福島に帰省している。そ の福島から仙台に行き、フェリーで北海道の苫小牧に向かった。

2泊3日の家族旅行。札幌の大通り公園など観光名所も回ったが、旅行の目 的はもう一つあった。 妹の甲状腺検査だ。年の離れた妹は、原発事故当時は保育園に通っていた。 その妹の健康を心配して、父が札幌の病院を予約していた。 「ついでだから、お前も受診しろ」 言われるがままにエコー検査を受けると、医師から「見たことがない映り方 をしている」と言われた。 何が何だか分からないまま、ただ父と医師が話す様子が記憶に残っている。 後で知ったことだが、この時、父は「乳頭がん」と伝えられたという。

3、初めての手術

札幌でがんと診断されてからの手術までの記憶はあまりない。 自分は、父親ががんと告知を受けた事実を知らず 「自分の身体(からだ)にどこか良くないところがあるのかもしれない」 その程度でしか理解していなかった。 父が知り合った大学教授を介して、広島にいる専門医に診てもらうことにな った。チェルノブイリ原発事故後、ウクライナで、子どもたちの甲状腺がんを 手術してきた名医だった。 自覚症状が全くなく、生活にも支障が出ていない。ただ自分は「がん」と診 断されている。

「本当にがんなのか」 自分で理解出来ないまま、1 回目の手術を受けることになった。 初めての手術ということもあり、手術室に向かうまでの通路は、少し緊張し ながら向かった記憶がある。術後しばらくは声が出なかったが、経過は良好 で、後遺症もほとんどなかった。担当医の腕のせいか。「こんなもんか」とい うのが正直な感想だった。

4、2回目の手術

だが、半年も経たず、2回目の手術を受けることになった。前回の手術で、 全ての腫瘍を取りきれていなかったためだ。前回は、甲状腺を半分だけ摘出し たが、今回は全てを摘出するという。でも、初めて行く島根県に、頭の中は半 分旅行気分だった。

到着した病院は、どこの地方にもありそうな大きく、古めかしい公立病院だった。 入院期間は、前回と同じ 1 週間。入院した4人部屋にいたのは、自分のほか には、7〜80代のおじいさん 1 人だけ。特に心配なこともなく、静かに時間 が過ぎていった。 相部屋のおじいさんは、気さくで、部屋を出るタイミングや歯磨きする時な ど、会うたびに声を掛けてくれる可愛らしいおじいさんだった。

入院 2 日目、そのおじいさんが、オペを終えて部屋に戻ってきた。でも、手 術前の様子とは全く異なり、表情はなく、面会に訪れた家族との会話もなく、 ようやく絞り出した声はかすれていた。 その変わり果てた姿に、なぜかとても悲しい気持ちになり、翌日、自分の手 術日を迎えたことを覚えている。

オペの朝。手術用の服に着替えて手術室に向かう。手術室の前で椅子に座 り、少しだけ待機し、すぐに看護師に呼ばれてオペ室に入った。 オペ室の空間は、少し緊張する。 心電図や酸素濃度を測る器具を付けられ、麻酔が入ると、じんわりと意識が 遠くなり、7〜8回深い呼吸をするとフッと意識がなくなった。

麻酔から目が覚めると辺りは真っ暗で、目が覚めてからも意識はぼんやりと したままだった。後で知ったことだが、手術は7時間にも及んだという。

手術をした首だけでなく、腰、臀部(でんぶ)にも強い痛みを感じる。 尿道カテーテルが上手く機能していなかったため排尿することが出来ず、お 腹が膨れ上がっていた。 ナースコールでそのことを伝えようとしたが、声が出ない。何回も、何回 も、声を出そうとするが喉から息が漏れるだけで意思が伝えられない。 病室にやってきた看護師にジェスチャーをしたら、ようやく理解してくれた が、この時はじめて、自分の声、自分の言葉で、意思を伝えられないもどかし さを経験した。

このまま一生。声が戻らなくなったらどうなるのか。 暗い手術室の中で痛みに耐えながら、声が出ないことに強い絶望を感じた。 しずまり返った部屋の中で、ひたすら鳴り続ける心電図の音を聞いている と、この時間が永遠に続くかのように感じた。

その時初めて、「こんなにも辛く、声も失うのなら、いっそ、死んだ方が楽 かもしれない。」そう思った。

朝になっても、麻酔はなかなか切れなかった。声は出ず、身体(からだ)に はまだ強い痛みが残っている。家族が面会に来てくれても、反応する気力がな い。 人の声だけが頭の中に残り、ただひたすら「何も考えたくない」という思いで 心が閉じてしまっていた。

手術を終えてから丸一日が経過してからようやく麻酔による身体のだるさが なくなり、まだ枯れているものの、声も少しずつ戻ってきた。病室に来た家族 を安心させるために、明るく振る舞えるくらいまでに、体調も回復してきた。 少しずつ声を取り戻す中で、今ある「当たり前」が、とても尊いものだ、 と感じられるようになってきた。

入院期間は予定より長引いたが、10 日ほどで退院となった。 帰りは、無事手術を終えたことを、広島のかかりつけ医に報告するため、父 とふたり、JR 山陽本線とバスを乗り継いで、広島に向かった。 山陽本線の窓からは、日本海を一望することができた。ボックスシートの向 かいには、父が座っている。 父は今どのような気持ちなのだろうか。音楽を聴きながら、窓の外の海を眺 めていた。

自分は、アヴィーチーという DJ が昔から好きで、その時も、イヤフォンか らアヴィーチーの「The Nights」が流れていた。父親が語った言葉と、あの夜 のことを絶対に忘れない。父と息子のかけがえのない思い出を歌った曲だ。

「He said “one day you’ll leave this world behind. So live a life you remember. (父は言った。いつかお前もこの世を去る時が来る。だから、忘れられないよ うな人生を送りなさい。)」

そんなフレーズが丁度耳に飛び込んできた。 父の気持ちは分からなかったが、自分の中で今の手術の経験が重なった。 そして、深夜の病室で死にたいと思ったことを深く後悔した。 「いつか死ぬなら、それまで、精一杯の人生を送ろう。」 「自分のことで、父親が負い目に感じさせたくない」

2度も首も切る手術をしたなら、もう半分死んだようなものだ。今までは、家 族や周囲から見て無難な選択をしてきたけど、これからは自分の意志を大切に しよう。この時、そう心に決めた。

5、再発を繰り返す中で

甲状腺がんは、深刻な病気ではないと言われているが、自分の場合、結局、 これまでに4回の手術を受けている。3回目の手術は1年後。就職活動の真っ 最中で、手術日は、合同説明会の解禁日だった。

ただ 2 回目の手術を経て、全てが吹っ切れていた自分にとって、そんなこと は気にならなかった。死を意識した日から、目の前のできることに集中してや りきりたい、そう思ってきたため、再発が分かっても気持ちがブレることはな かった。必要ならオペを受ける。そんな思いで手術に臨んだ。

オペ室に呼ばれるギリギリまで、就活に向けた自己分析に時間を割き、その 2ヶ月後には、希望の会社に就職が決まった。

6、4回目の再発・手術

入社 2 年目。有休暇をとって彼女と広島に旅行に行った。広島には何度も、 何度も来ているが、行くのはいつも病院だけ。実はよく知らない。

旅行の最終日、かかりつけ医に出向いて、エコーと細胞診を行った。 首に太い針を刺し、細胞をグッグッとスポイトの様に吸い上げる。 その場で、即座に診断してもらったところ、反回神経に隣接したリンパ節に がんの転移が見つかった。

「ああ、またか。仕事の休みはどうしよう。何回やっても、結局、再発のリス クはなくならないのか。」そう思った。

今回は仕事の関係もあり、手術は東京の病院で受けることになった。 オペの説明は父と聞いた。反回神経がすでに機能していないので, 反回神 経を切断し、気管切開を行うという。

いまいちピンとこないが、反回神経を切断すれば、声を失うか、話せたとし ても、声帯が正しく機能せず、掠れ声になる可能性がある。少なくとも今の声 は戻らない。当たり前のように説明する医師は、声がなくなることを考えた事 があるのか。態度に出やすい父が、横でとても憤っているのを感じた。

「声は失くせない。」

仕事の合間を縫って、セカンドオピニオンを受けた。ファイバースコープで みると、切断する予定の反回神経は、問題なく動いている。反回神経の切除は 回避すべきとの意見書をもらいそれを主治医に持ち込んだ。

反回神経の切断はしたくない。それだけ。 手術の直前に術式の変更が決まった。

入院もオペもなれた。全身麻酔にもだいぶ慣れた。何回か息をすると、身体 がジリジリして意識が遠くなる。麻酔から覚める時は朝の目覚めとは少し違 う。

声は大丈夫か。 誰かがいるかもしれないので小さく「あーー」と声帯を動かす。 声は掠れて出づらい。ただ、声はある。ほっと胸を撫で下ろす瞬間。

食欲はないが食べ方がいいだろうと思い、毎食全て食べ切る。 首を切った後は可動域が狭まるため、毎日ストレッチをする。 ちょっとずつ、ちょっとずつ、首があと少しでも右、左に動かせるように。

7、アイソトープ治療

今回は手術後に、アイソトープ治療も受けた。 高濃度の放射性ヨウ素を服用して甲状腺がんを内部被曝させ、がん細胞を破 壊する治療だ。

この治療を受ける前は、何よりも食事制限が面倒だ。仕事中は休憩の合間を 縫ってコンビニ向かうが、まず見るのは裏に記載されている成分表。あれにも これにも増粘剤が入っている、 増粘剤は、食品に粘度を付ける食品添加物だが、成分にヨウ素が含まれてい る。 あれもだめ、これもだめ、考えるのが面倒。世の中には増粘剤が溢れてい る。

外食をしても、まず聞くのはやはり成分。増粘剤が入っているか質問する と、その場では対応できず、奥でスタッフがやり取りしているのが見える。彼 女にはごめんねと伝える。

アイソトープ治療前は、チラージンの服用も休止する。止めて2週間ほど経 過すると、身体がむくみ、手もパンパンに腫れてくる。身体に、異変を感じな がらの生活だった。

入院は、隔離病棟。人を被曝させないためだ。 治療前の説明書には、「服用後、性交渉は半年間禁止」とある。 目には見えない放射性物質。薬を飲んだところで何も変わらない。 それでもダメなものはダメ。

もしかすると生まれてくる将来の命にも影響があるかもしれない。 それが気がかりだ。

8、最後に

再発するかもというのは、頭の片隅には常にある。 がんの再発は覚悟しているが、前だけを見たいと考えている。

自分の病気が放射線による被曝の影響と認められるのか。 この裁判を通じて、最後までしっかり事実を確認したい。

以上

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