令和4年(ワ)第1880号
311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事 件)
原告 1~6
被告 東京電力ホールディングス株式会社
意見陳述要旨
2022年11月9日 原告5
私は、文章でも、言葉でも、自分が思ってることを伝えるのがもともと得意 ではありません。 裁判を起こす前、私は、裁判は1回で終わるものだと思っていました。 意見陳述も、誰か一人が代表して読むんだと思っていました。 だから提訴後に、原告で色々な話し合いをして、原告全員が意見陳述しよう となったとき、正直おわったなーと思いました。
でも2回、裁判所に来て、自分の辛い経験を話すほかの原告を見て、同じ病 気になっても、みんな一人ひとり、全然違う。 自分もやらないわけにはいかないと思いました。
私は、昔のことはよく覚えているのに、最近のことはあまり覚えていないし、 内容も、文章も、自信はありません。 弁護士さんと毎週のようにラインで話し合いをして、少しずつ思い出しなが ら、陳述書を作りました。 この陳述書は、私がこれまでに書いた中で、一番長い作文です。 最後まで噛まずに、読みたいと思います。
1 被ばく
震災があったのは中1の時です。 その日は、先輩の卒業式があり、学校の終わりが早かったので、セブンでお 2 昼ご飯を買い、友達ん家で食べつつ、遊んでました。私も友達もおでんを買っ てたのを覚えてます。 丁度、おでんを食べてた時に携帯のサイレンがなり、地震が起きました。 携帯のサイレンを聞くのも、あんなに大きな地震にあうのも初めてでみんな 大慌てで外に避難しました。 外は吹雪いていて、この世の終わりだなと感じ、友達と話した記憶がありま す。 それぞれの家族に連絡を取り終えて、また、友達ん家に入り、ニュースをつ けると「震度 6」という数字が目に飛び込んできました。津波の映像が流れて きて、それを見た友達が泣いてるのを見て、やっと、この状況がとても酷いこ となのだと把握しました。
原発事故は、伯母が、放射能をとても気にしてたので、よく覚えています。 放射能は、気にする人と気にしてない人の差が激しくて、自分は、気にしてな い方の側だったので、何も変わらず、ノー天気に暮らしてました。 爆発映像は、流し見程度でしたが、風評被害とか、福島へのあたりの強さと か、どんどん状況がひどくなっている印象でした。
2 学校生活
学校は、休みが少し長引きました。新学期が始まっても。ちょっと落ち着か ない感じでした。 避難をする生徒が何人かいて、その中に私の友だちもいました。そのショッ クもあったのか、どんどん学校に行く頻度が低くなりました。それが、だんだ ん本格的に不登校になりました。 不登校になっても、部活の方には顔を出していました。学校には行くのは放 課後です。部活が終わっても帰らず、校門付近や公園で駄弁っていて夜遅くま で学校にいて先生に注意された。
放射能を気にする友達が私の周りに居なかったので、普通に遊んでました。 雨が降ってもそれに当たりながら帰った。 外に出かける時、持って歩くようにと学校から渡された数値を測る機械も身 につけず、家に放置してた。
でも、伯母はとても気にしてて、いつか身体に影響が出るのだなー感じなが らもどこか自分は大丈夫と思っていたような気がします。 自分の家族もそこまで気にする感じではなかったので、遊びにも普通に行っ てました。 地元より安いからという理由で、週末に友達と、電車で須賀川に行きイオン タウンのプリクラを撮りに行くという謎の行為をしていた。 プリクラより交通費の方が高かった。
不登校中は、市役所近くの不登校になってしまった子がくるところに通って いてバスで行ってたり、車で送り迎えしてもらったり長い時間をかけて、歩い て帰ったりもしてました。
3 診断
不登校だったので、学校では一度も、甲状腺のエコー検査は受けていません。 自宅に通知が来ても 2 回ぐらい拒否していた。 特に理由もなく、めんどくさい、 する必要はないと思っていたのだと思う。 3 回目くらい目の通知で、「これが最後」みたいなことを親から聞かされ、 「最後なら行くか」のノリで受けた気がします。
エコーを取り終えた時、何故か、癌があるんじゃないのかなと勘が働いてま した。それを親にも言ってます。 案の定、再検査の通知が来ました。 福島医大での再検査でした。細胞診の首に刺す針は最初、とても怖く感じま した。痛みには強い方ですがこの時は恐怖でした。針の痛みより、押されてる のか、刺さってる圧なのか、見えなくてよくわかりませんでしたが、針の痛み ではない痛みの方が強かったです。 それを何故か 2 回受けた記憶があります。 そのあと、癌と診断されました。
最初のエコーの時点で癌だと思っていたの で、なんとも感じませんでした。 でも母は泣いていたのか、ショックを受けていた。 福島医大の通院はとても憂鬱でした。
まず医大に着くのに車で 1 時間ちょいはかかり、そこからさらに診察される までに 2〜3 時間ぐらい待っていて憂鬱でしたなかったです。 暗い廊下で、ずっとうつむいたまま。 覚えている光景は、自分のイヤフォンの有線です。 聞いていた曲は多分、ボカロとか、ラッドウィンプスとか、米津玄師とか。 でも、よく覚えていない。 待っている時に、カウンセラーの人なのか、話しかけてくれる先生がいまし たが、きっとあの時はイライラずっとしていて、時に態度がよろしくなかった 日もあったと思います。 今思うと本当申し訳ないなと、その方に思います。 診察時にもイライラしました。
ちょっと気になる事があって母に聞くと、母 が代わりに先生に聞いてくれました。その度に、先生の「大丈夫だから、心配 なんだね?」みたいな表情とか言動が本当にイライラさせてくれました。 そんなことはどうでも良いので、待ち時間を減らしてくれないかと余計にイ ライラしてました。 どれぐらいの頻度で通院していたのかは記憶なし。採血は慣れた。 最初はこんなにとるの?という驚きがあったけど、今は、「こんぐらいだよ ね」っていう慣れです。 でも、いまでも、病院は好きになれない。病院の空間自体が。待っている人 だけがいる場所だから。
4 手術
手術は誕生日でした。 自分の記憶してる限り、誕生日は天気が悪い雨とかだったのに、その日は晴 天でした。 手術はするのは先生ですが、やっぱり手術ってなると、めんどくささや不安 があり嫌だった。 今もできるなら、もうしたくはない。 でも、全身麻酔は経験できて良かった。自分の意志と関係なく、意識がなく なる・・・。 死って、こんな感じなのかなと思う。
手術の傷はずいぶん大きかったけど、切り取った物が見れなくて残念だった。 退院後はまた通院。傷口を塞ぐテープをちゃんと貼らなきゃいけないがめん どくさく、貼らない、薬も飲み忘れる。 傷口を早く治す薬はちゃんと飲んどけばよかったなと後悔しています。 ただ日焼けは良くないということだけは聞いて、ピンポイントで対策してた と思う。バンダナとかチョーカーとかで。 ホルモンの影響で太るから気をつけなさいと言われたがちゃんと太った。
5 再発
先生が「とってしまえば大丈夫」というので、私は、がんをとっちゃえば、 がん患者ではなくなると思ってました。 けど、また手術することになった。再発なのか、元々取れなかったのが大き くなったのかわかりません。 がんが見つかったのは、成人式の次の日。この時も、特に驚かなかったけど、 「めんどくさっ」とは思いました。何がどうなって、今の病院に転院したのか 覚えてない。すぐ手術となったような気がします。 母の心配していた通りになった。 転院した病院は小さくて、専門の病院ってこともあって人が多い。福島から 東京の病院に通うようになり、朝が早くてきつくなったけど、もうこの時には、 待たされるのも長い移動時間もどうでも良いと思っていました。 いや、イラついてた時もあった。 2 回目の手術は、意識があるうちに尿管のくだと、鼻に通すくだを入れまし た。とても綺麗な看護師さんだったのを覚えてます。でも、鼻のくだが入らず、 涙とか鼻水とか、顔から出る物は全部出た。 手術後より大変だった。 手術前の病室で、祖母が私に向かって手を合わせた。 恥ずかしい。マジやめて。 と思って、写真を撮りました。 麻酔から覚めると、今度は、点滴の針が入らず、また看護師さんにすごい迷 惑をかけた。2、3人の看護師さんが交代し、初めてあんなに針を刺されまし た。申し訳ないなと思った記憶。
看護師さんからずっと謝ってたよと言われました。 手術はリンパを大きく切り取ったので、耳の下まで傷口がありました。 でも、その時は、どんな手術か理解してなかった。傷口がなかなら塞がらず、 退院後に、首から体液が流れてきたときは焦りました。 急遽、福島から東京の病院に行った。 手と足が硬直するようにもなった。気づいたのはトイレ。勝手に踵が上がり、 変に力が入ってなのか立てなくなりました。 これは 2 回目の手術が原因だと思う。 病院のご飯は美味しかった気がする。手術後、病室が一緒だった方と少しお 話ししてご厚意でアイスやスイーツを頂く連続で。 しかも高いハーゲンダッツ。 アイソトープ治療のことは全く覚えていません。何を思い出したら良いのか 分からないぐらい。ただ家に幼いいとこが居たので、悪い影響があるかも、と 心配して、すぐ家に帰るのを躊躇して、知り合いの紹介でお寺のお部屋をお借 りしたのを覚えてます。
6 今
病気が見つかってからずっと、「健康調査」があるのは、県民の健康を気に しているのだなと感じていた。ありがたいことだなとかまで思っていた。 国なのか、県なのかは分かっていないけど、へーすげーなーと思ってた。
甲状腺癌が見つかる人が増えてるのをニュースで見る。 その 1 人になる。 でも、それは「過剰診断」により見つかっただけであると流れる。
では、何のために検査は行われたのか?
少しでもありがたいなと思っていた気持ちはどうなる?
がっかりというか、残念でならない。 自分は、検査 2 回ぐらい拒否ってたくせに。 複雑な気持ちです。 最近また再発して、3回目の手術の話が出た。 嫌な気持ちもあるけど、どちらかというと母親に迷惑かけてばかりなのが申し訳ない ただでさえ薬を飲み忘れが多いのに、これからもずっと飲まないといけない。 前までは飲まないのが日常だったけど、もう、飲むのが当たり前だから、 それに慣れるまでまだ、もう少しかかると思う。 漠然とした不安。 これから先のことも考えられない。 今とか、未来とか、実際、やばい。
でも、私は病気になったのが、身内や友達ではなく、自分で良かったなと思 ってます。友だちや家族が罹った方がつらいんじゃないかと思う。 今でも友だちが心配です。何も考えずに一緒に遊んでいた子。 これから、結婚とか、出産とかになっていくのに、まだ、甲状腺がんになる 可能性はあるから、不安はのぞけてないんだよな〜と思います。
裁判官の皆さんに対しても、甲状腺がんになったのが、 あなたのお子さんでなくて良かった。 そう思います。 裁判官の皆さんには、今もこれからも不安に思う人が 300 人以上いてその家 族達も不安に思っていることを伝えたいです。そして、今の状況が少しでも変 わればと思っています。
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