311子ども甲状腺がん裁判 意見陳述要旨(原告7)

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令和4年(ワ)第 1880号311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事件)

令和4年(ワ)第22539号311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事件)

原告 1ほか

被告 東京電力ホールディングス株式会社

意見陳述要旨 2023年1月25日 原告7

「こんな裁判が起きたみたいだよ」 ちょうど1年前、父から、ある新聞記事を見せられました。 甲状腺がんとなった私と同じ年代、私と同じ福島出身、私と同じ境遇の人た ちが裁判を起こしたことが書かれていました。

「この裁判について知りたい」 父にお願いして、弁護士さんに会う機会を作ってもらいました。すぐに話を 聞きに行き、裁判に参加することを決意しました。

それまでの私は、「裁判」という言葉を聞いただけで嫌悪感がありました。 でも、甲状腺がんになった原因をはっきりさせるためには、こうするしかな いと、強く感じたからです。

1  5回目の検査

甲状腺がんが見つかったきっかけは、2年前の1月に受けた福島県の甲状腺 検査です。

甲状腺検査には家族4人で、車で行きました。 大学3年の時、父の仕事の 都合で、家族全員が上京したため、東京の美大に進学していた私も、一緒に暮ら すようになっていました。 車を運転していたのは父でした。病院に向かう途中に道に迷い、予約時間を 30分も過ぎているのに、急ぐ様子もないので、私と母がイラついていたのを覚 えています。

「県民健康調査」の甲状腺検査を受診するのは、今回が5回目です。 中学生の時に1回、高校生の時に2回、大学の時に1回、受けました。なの で、今回の検査も、これまでと同じように、すぐに終わると思っていました。

ところが、検査をしている女性が首を傾けながら、エコー画像を見ているの で様子がおかしいなと感じました。長い時間がたち、ようやく検査終了かと思っ たら、その女性が「少々、お待ちください。」と言って裏の方へ行き、今度は別 の女性を連れてきて戻ってきました。そして、その女性が、また同じように検査 を始めたので、ふと不安がよぎりました。 「お疲れ様でした。」と言われて検査室から出ると私より後に検査室に入っ た妹が既に外で待っていたので、不安はさらに高まりました。

2 がんの告知

一次検査の後も、不安はありましたが、いつ結果が届くかわからないので、 普通に過ごしていました。その頃、私は大学卒業間近で、卒業制作にかかりっき りでした。美大なので、卒業制作が完成しなければ卒業できません。

まさに卒業制作に追われていた2月中旬、1次検査の結果が届きました。見 ると「二次検査を勧めます。」と書いてあります。でも卒業制作展に向けて忙し く、何も考えることができませんでした。

ようやく、2次検査を予約したのは卒業後です。すでに夏が間近になってい ました。2次検査を受診できる病院は、都内では3ヶ所だけです。自宅から一番 近いという理由で、虎の門病院を選びました。

病院へは一人で行きました。30度を超える猛暑日でした。虎ノ門駅の出口 から外に出ると、まわりがビルだらけだったのが印象に残っています。 スマホでグーグルマップをみながら、少し迷いながらまだ新しい高層の病院 に到着しました。

エコー検査は、1次検査の時ほど長くはありませんでした。先生は、メガネ をかけたおばあさんです。フランクな感じだったので、あまり緊張はしませんで した。「やはり影があるから細胞診をやりましょう。」その場で結果を聞かされ、 続けて細胞診をすることになりました。

「痛くならないようにするから、耐えてください。」

そう言われて、3回、針を刺されました。痛みはそれほど感じなかったけど、 首を針で刺しているので、不快でした。ずっと上を向いていなければならず、首 がつらかった。早くおわってくれと思っていました。

1週間後、また一人で細胞診の結果を聞きに行きました。先生から「悪性」と 告知を受け、「1cm以上あるから手術をしなければいけない状態だ。」と説明 されました。私はその言葉を聞いて頭が真っ白になってしまいました。

これまでの検査では、そのたびに「問題なし」と言われてきました。1回目と 3回目はまったく所見がない「A1判定」、2回目と4回目はのう胞があり「A 2判定」でしたが、がんの兆候はまったくありませんでした。なので、悪い結果 を予感はあったものの、せいぜい経過観察ぐらいだろうと甘く見ていたのです。 まさか手術が必要になるとは思っていませんでした。

「手術後回しにすると、転移とか悪い方向にいくだけだから。手術を勧めざ るを得ない。」 先生から、そう説明を受けました。

帰りの電車で何を考えたのか。全く覚えていません。心の中は、ただただ「無」 だったと思います。

3 手術

それから2ヶ月後、新宿の病院で手術を受けることになりました。手術の時 も一人で入院しました。コロナの影響で、両親が病室に入れなかったためです。

手術は、流れ作業のような感じでした。手術前は、手術用の服を着て、帽子を 被ります。なで型なため、肩のマジックテープがうまく止まらなかったり、髪の 毛が長くて、帽子にうまく入らなかったりして、少しイライラしました。手術室 に入り、手術台に横になると麻酔が入り、一瞬で意識がなくなりました。

辛かったのは、麻酔から覚めた後の24時間です。術前に、看護師さんから 「手術後24時間は寝たきり状態」だと聞いたときは、「え。」と思いつつ、「ま ぁ大丈夫」と思っていました。 でも、実際にやってみると本当に辛い。寝返りは全くできず、手足も動かせ ない。動かしていいのは、手首と足首だけ。体は硬直しているのに、頭は冴えきり寝てるいだけで、こんな苦痛なのかと思いました。

24時間経つと、体を起こすことは許されましたが、首を動かすことはでき ません。無理に動いたら傷口が開くんじゃないかと不安で、身体中に、変に力を 入れていました。そのせいで頭も痛くなり、苦しい時間が続きました。

ご飯もお粥です。最初は、まるでお湯のようなドロドロの重湯で、味がなく まずい。最初は無理して食べていたけど、気持ちが悪くなり、麦ご飯になるまで、 おかずしか食べませんでした。

4 退院

一週間ほど入院して、やっと家に帰れる時は、嬉しかった。退院時に支払う 金額が18万ぐらいだったので自分で支払うことができず、父に病院まで来て もらいました。

病院の外に出ると、近くにコメダ珈琲があったので、「入ろうか」と、父と二 人で入り、昼食を摂りました。食べたのは、ビーフシチューです。「やっとまと もな食事だよ」と、残さずに食べました。カフェオレにソフトクリームがのって いる「クリームオーレ」も飲みました。

ただ、退院しても、開放的な気持ちにはなれなかった。退院時に先生から、 「首はゆっくりうごかしてもいいけど、気をつけて。」「車でバックする時とか は気をつけてね」と言われていたため、首を動かしたら、傷口が開くんじゃない かと気がかりで、とにかく怖くて、首を動かせなかった。特に起き上がる時は、 どうしても首に力が入るので、その度にビクビクしていました。

首を固定するために、常に肩から頭にかけて力を入れていたせいか、人の声 が頭に響き、ちょっとしたもの音でも、気になるようになりました。夜中のバイ ク音など、ちょっとしたことにもイライラするようになりました。

また当時は、手術痕の上に、腫れ止めのテープを貼っていました。このテー プは粘着力が強く、喋ると皮膚が引っ張られるので、それも辛かった。

慣れないうちは、剥がす度に激痛が走るので、それだけで30分以上かかっ ていました。しかも最初の頃は、自分でできず、母にやってもらっていましたが、 母も初めてだったので時間がかかり、「早くしてよ!」と怒鳴ってしまうこともありました。

こんな時、父や妹から「怒る事ないでしょ?」と言われましたが、分かってい ても、どうしても冷静になれなくて「うるさい!あんたらは黙って!」と返して いました。

この頃は、家族ですら敵に見えたり、誰かが自分の噂をして、貶(けな)して いるんじゃないかと疑ったり、情緒不安定な時期が続きました。

家族は柔らかい感じで話してくれていたけれど、家族に「うるさい」と言っ たり、怒鳴り声をあげることもありました。病院で「当分の間、大声をあげるの はやめてください」と説明されていたのに、辛いし、イライラしてしまって、家 族に怒鳴ってしまった。

絵を描くために座っていることも苦痛になり、以前はできていたことができ なくなったことも苦痛で、精神的にギリギリな状態でした。

大学はすでに卒業しているので、就職のことを考える必要がありましたが、 絵の仕事につける自信も持てず、体力的にも、精神的にも限界だったので、どう でもよくなっていました。ずっと家に引きこもり、誰とも話さない日々でした。

それが、少し楽になったのは、退院1ヶ月後の診察後です。「一ヶ月経ったか ら、首を動かして大丈夫」そんな医師の一言がきっかけで、首をうごかせるよう になり、精神的にも体力的にも少しずつ余裕をもてるようになりました。頭痛も 改善していきました。

ところが、気持ちが落ち着いてくると、今後は、自分は一体、何をしているん だろうと、自分で自分を責める時間が増えました。

5 裁判

裁判のことを知ったのは、ちょうどその頃です。私は当時、甲状腺がん手術 で辛い思いをしたのは、自分の落ち度が原因だと思っていました。

私は、今まで何度も県民健康調査で検査を受けて、「健康だ」と言われてきた ので、甲状腺がんの問題は、「自分には関係ない」と無意識に思っていました。 みんな色々というけど、何もないんだったら、調べる必要ないじゃんとまで 思っていました。

事故から10年。自分が甲状腺がんになるまで、この問題に触れてこなかっ たのは、私の落ち度かもしれない。裁判の話を聞くまではずっと、自分がダメな んだと自己完結していました。

でも、裁判があることを知り、私と同じような人がいることを知って、勇気 をもらいました。

東日本大震災と原発事故が起きた時は、小学生だったので、当時のことは、 ほとんど覚えていません。あの事故が、自分の病気に関係しているのかもしれな い。

裁判を知ってから、甲状腺がんになった人が福島県内だけでも300人以上 いることを知りました。自分が思っているよりもはるかに多い人が甲状腺がん で苦しんでいる。ことの事の重大性を知り、今、立ち上がらないといけないと思 いました。

自分と同じように辛い手術を受けている人、言われのない暴言を言われてい る人。

このままだと自分だけではなく、他にも苦しんでいる人が大勢いるのに、死 ぬまでずっと曖昧にされたまま終わらせられてしまう。自分自身の窮地を脱す るためにも、自ら立ち向かって行かなきゃいけないと思いました。

6 最後に

裁判に関するネット記事を見ていた時、Yahooニュースのコメント欄に 「気持ちはわかるけど、過去のことなのだから、前を向いて進むべき」という、 そんな書き込みを見つけました。

いつまでも過去に囚われていたら、あなたにとって良いことないよと善意で 書いたのかもしれないけれど、私は強い反発を覚えました。

確かに過去に起きたことだけど、大切なのは、未来にどう繋げるかのはず。 悲惨な事故のことは忘れてはいけないし、なかったことにはしてはならないと 思いました。そうしなければ、また同じことを繰り返し、私たちと同じ被害者を生んでしまいます。

4回検査を受けても、見つからなかった甲状腺がんが、2年間で1センチ以 上も大きくなり、5回目の検査で手術が必要になったのは何故なのか。クリーニ ング効果によるものなのか、過剰診断なのか、被曝の影響なのか。

裁判は、今まで謎にされてきたこと、事実を明らかにする場だと思っていま す。私はそのために、今、ここにいます。

裁判官のみなさん。 私たちは今、匿名で戦っていますが、一人ひとり名前があります。私の名前 はわかりますか。

かつての私のように、裁判官の皆さんにとっては、ひとごとかもしれません。 私がそうだったから、痛いほどわかります。

でも、私たちがなぜこのように立たざるを得なかったのか。それだけでも理 解してほしいです。

以上

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