平成26年(ワ)第174号 福島原発おかやま損害賠償請求事件
原告 原告番号1 外95名
被告 国 外1名
意 見 陳 述 書
平成27年2月3日
岡山地方裁判所第1民事部合議係 御中
原告番号1 大 塚 愛
1 私のこと
私は広島県福山市で出生して,1歳から25歳までこの岡山で過ごしました。
私が福島で生活を始めるようになったのは大学を卒業した3年後の1999年のことです。大学では教育学部で幼児教育を専攻しました。大学卒業後,自分の夢を模索する中で自給自足と大工を目指すようになり,福島県川俣町にある農場で農業研修を受けることになりました。
半年間の農業研修ののち,私が生活をしていたのは福島県双葉郡川内村というところです。川内村は浜通りの中部に位置し,福島第一原子力発電所からは30キロ圏内にあります。川内村の当時の人口は3000人くらいでした。
私はこの村に自分で小屋を建てて住み,村の大工の親方に弟子入りし,平日は大工仕事を,土日は農作業をしながら生活していました。
川内村に移ってから4年後,仕事の関係で福島に来た夫と出会って結婚し,川内村に夫婦で新居を建てました。子どもが2人生まれて家族4人になり,大工と建築設計の仕事を営みつつ,春には山菜を採り,夏には渓流で泳いでヤマメを釣って食べ,秋にはキノコやクリを採り,冬には薪で暖をとる,そのような暮らしをして,四季のめぐりや自然の恵みに何より生きる豊かさを感じていました。
2 原発事故の発生
平成23年3月11日午後,東日本大震災が発生しました。
我が家も震度6の地震に見舞われましたが,幸い住居やライフラインに被害はなく夕方を迎えました。その時はまだ余震が続いていましたが,「すごい地震が来たけれど,なんとか乗り越えられた」と私は思っていました。
しかし,原発の情報を気にしていたところ,午後4時ごろに「原発の冷却水が止まっているらしい」という情報が入りました。避難をするべきか迷っていたところ,午後8時ごろ,原発から3キロ圏内に避難指示が出されたことをラジオのニュースで知りました。
この時点で,「やはり原発で何か大変なことが起こっているかもしれない。今晩ここにいては危ないかもしれない」と考え,急きょ避難の準備をして,夜10時ごろに我が家を自動車で出発し,西へと向かいました。
その日は田村市まで移動し,翌日は会津若松まで移動しました。テレビのニュースでは,原発の電源は回復していないという報道がされ,午後3時ころには1号機が爆発したと報道されました。
今までずっと起きてほしくないと思っていた原発事故が本当に起きてしまった。
私が住んでいたあの家にも,庭にも,畑にも,山にも,川にも,放射能が降ってくるということが,本当に起きてしまったんだ,と,悲しい気持ちでいっぱいになりました。
私にとって,それまで穏やかに暮らしていた世界が,音を立てて崩れていくような出来事でした。
私は会津若松の路地裏で涙が止まらなかったことを覚えています。
そして,私たち家族は安全なところまで避難することを決め,12日の夕方から岡山にある私の実家を目指して移動を始めました。
移動中の車の中では,政府や東京電力の記者会見のニュースが流れていました。
その日起こった爆発について,曖昧な説明を繰りかえしているのを聞いて,「なんてことをしてくれたんだ!!」という怒りとも悲しみともつかぬ強い感情が,お腹の底から湧いてくるのを感じました。
岡山に到着してからも,気持ちはほとんど福島に置いてきたようで,毎日ニュースを見て状況を見守っていました。私が住んでいた川内村は,事故から4日後の2011年3月15日の時点で全村避難となり,村民3000名が全員村を離れることになりました。
3 岡山に移住後
避難後は,深い悲しみの中で過ごしていました。精神的には,まるで体中の血管が断ち切られ,そこから血が流れているように感じました。人は誰でも生活をしながら,そこで関わる人や土地や自然というものに,心をつなげて生きていると思います。
私にとって原発事故による避難という体験は,そのあらゆるつながりが突然断ち切られてしまうことでした。また,放射能被害によりそれが起こったことは,二度と3月11日以前の環境に戻ることはなく,川内村や浜通りという地域共同体としても,二度と元の状態に戻れることはないことを意味していました。
2011年4月に入って,新聞やインターネット,福島にいる友人からの情報によって,原発事故による放射能汚染の実態が明らかになってきました。そのときにわかったことは,放射能の汚染物質が福島県中通りを通り,たくさんの人が住んでいる地域に広がっており,またその情報が適切に住民に伝えられておらず,高い汚染を受けた地域に子どもも赤ちゃんも残っていることでした。
私はその状況に対して,子どもたちを被爆から守らなければいけない,と強く思いました。
福島県内に残っている知人達は,いち早くその必要性を感じとり,子ども達を避難させ,自主的な除染作業などを始めていました。
私も岡山からそれを支えたいと思い,支援の協力を呼びかけて,2011年5月に「子ども未来・愛ネットワーク」という市民団体を立ち上げました。
そして,福島県内に放射能防御や受け入れ支援の情報を届けたり,岡山県内に自主避難してくる親子のサポートを行ったりしてきました。
一方,その頃の福島県では,県の放射線アドバイザーとして派遣された長崎大学の山下俊一教授が,「放射能を気にしなくてもいい」という内容の講演をして回っていました。その頃の福島県内は今よりもはるかに放射線量が高く,とても安全とは言えない状況でした。
事故直後から,「外出時はマスクをつけてください」,「雨や雪に当たらないでください」,「水道水や食料に気をつけてください」と伝えていれば,福島や関東圏の子ども達は無用な被爆を避けられたと強く感じています。
4 おわりに
今回の原発事故を防げなかった理由は,10数mの津波が想定されていながら安全管理を怠ってきたこと,稼働して40年を迎える老朽化した原発を稼働させてきたことであって,人災以外の何ものでもありません。
東京電力は「原発は安全」と言い続けてきました。しかし,ひとたび事故が起これば,大気中に出た放射性物質に対して何も対処をすることなく,その責任を放棄しているかのように見えました。
また,国は被害を最小限に見せるため,正確な情報を適切に伝えることをしませんでした。
チェルノブイリ事故の被災地では,年間追加被ばく線量が5mSv以上の汚染で避難地域に指定されましたが,日本の基準はその4倍の年間20mSvです。チェルノブイリでは,今も多くの健康被害が出ているというのに,この4倍に上げられた数値に対して,誰が責任をもって「安全です」と言い切れるのでしょうか?
国,東京電力は,今回の原発事故によって,住民に無用な被爆をさせてしまいました。これは,大きな罪です。
国には, 放射能被爆による健康被害のリスクを認め,放射線物質により汚染を受けた地域に住んでいた住民に,避難の権利を認め,相応の支援や補償を行うべきであると思っています。
以上
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